アース教教説
精神の充足



欲望こそ人間を不幸たらしめる根幹の一つであろう。 金を欲しがるあまり窃盗に走り、愛を求めた果てに嫉妬に狂い、 地位と名声を求めるが故に謀略にふける。これらの罪は全て欲にかられたための結果である。

しかしだからと言って欲を非難し、欲望の排除を望むのは間違いである。 何故なら「生きる」というその事自体が既に欲であり、 これを否定してしまうのは結局自殺以外の道を断ってしまうのと同義であるからである。 また、何らかの目的を達しようとする意思――つまり、欲――があるために人は努力し続け、 未来に向けて歩んでいく事ができるのである。

従って、我々はいたずらに欲を否定するのでなく、欲と同居していく方法を模索するべきである。 欲を生きていく上で避けられぬものと認めつつ、しかしそれに左右されない生き方。 それこそがより良い生を送る上で必要な事であろう。

さて、欲とはすなわち「何かに満足する」ための衝動、ないし心の働きであると定義できる。 では人はどうすれば満足できるのだろうか。満足に至る道は大きく分けて二つあると思う。 まず一つは沸き起こる欲望をひたすら叶えていく道。もう一つはなるべく欲望を抑え、 何物にも心を動かさぬようにする道である。

まず前者を考えてみよう。例えば富豪になったと仮定しよう。あなたは事業に成功し莫大な富を得た。 溢れる富はあなたに様々な快楽を与え続け、まさにその栄華は他に並ぶ所を知らずと言わんばかり。 そこであなたは「満足」するために前者の方法、ひたすらに欲望を叶えていく道を選んだとする。 さあ、ではあなたは満足を得ることができるだろうか。

断言する。あなたは次々と沸き起こる欲望を叶え続け、永遠にそれに囚われるであろう。 何故なら欲の起こる元は実に様々で、到底人が一生かかっても全ての欲を極め尽くす事はできないからだ。 欲はさながら湧き水の如く生まれ出て、汲めども汲めども尽きる事を知らず、あなたは永久の水汲み人と化してしまうに違いない。 そして悲しいかな。湧き出る水は尽きぬとも、それを汲むあなたの身はいずれ朽ちるのだ。 しかし後者の道、欲望を抑えるようにする道を選んだものは、必ずや満足を得ることができるだろう。 あなたは適度の量の水を汲んで満足し、それ以上に体に鞭打って水を汲みつづける真似は決してしないであろう。

ここで問を発するものがいるかもしれない。 「欲望を抑えるという事は何らかの『我慢』をしている事であり、 それは真の『満足』をもたらしはしないのではないか」と。

なるほど、いかにも「我慢」は真の満足をもたらしはしないだろう。 あれをしたい、これが欲しい。そんな思いを抱きつつそれに向かって走って行かない。 それは砂漠の中で己に鞭打つ苦行者にも似て実に苦しいものであろう。「満足」とは程遠い状況である。

そこで私が奨励したいのが「精神の充足」である。充足は満足と書き換えても良い。

そもそも満足とは一体どのような事なのだろうか。それは結局精神の働きである。 大金を得て満足するにしても、それは大金という外界のものがあなたを直接満足させるのではなく、 「大金を得た」という事実があなたの脳――つまり精神――に働きかけ、その結果あなたは「満足」するのである。 つまり、全ての満足は精神の働きがもたらすものなのである。

従って次のように言える。「精神が満ち足りれば全ての『満足』が得られよう」と。 いかなる状況下においても精神の平静を乱さず、常に精神的な満足感を得る。 それこそが真に「満足」するための秘訣なのである。

そして、精神的な欲求は決して他人を傷つけはしない。 何故なら精神とは純粋に個人の中にあるものであるから、そこに他者への危害などというものの入る余地は無いからである。 仮に他者を蹂躙して欲求を叶えても、その者個人が己が内で納得し満足しない限り、真の満足は得られないからである。

精神的に満足する道としては、学問・恋愛・芸術、そして宗教――が挙げられよう (但し、言うまでも無く「内的な」意味であって、「外的」な意味での――例えば学問上の敵を 追い落とすために迫害を加えるといった行為で表される――ものではない)。 金だの家だのといった外的な欲求よりも、これら内的な欲求を追い求める事が、 世の中から諍いを無くし、ひいてはより自分の幸せに繋がるのである。




黄金に囲まれていても、心の荒んだ者は哀れである。

清貧に甘んじていても、心の豊かな者は幸いである。








執筆 教皇ネヴァモア





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