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締葉さんの理解は一点を除いて全く正しいものと考えます。
違う一点というのは
> そもそも、「アース」自体は、言うなれば「世界を管理するシステム」であって、良いもでも悪いものでもなく、そういった面を超越して存在する「ところに意味がある」のだと思いますから。
> 何らかの「思惑」を持つことはそぐわない。なんらかの思惑を持って行動するのは、それはもう「人格」であって「カミ」ではない。
これは全く受け入れられません。
何故ならアース教ネヴァモア派にとっての「神」というものは
そういった人格を有する点に人間との連続性を認め、
人間との連続性があるという理由により「進化・成長」の目標となる存在だからです。
「システム」を目標として自己を高める事ができるでしょうか?
アース教ネヴァモア派が自然神を否定する背景にはこういった考えがあるからです。
締葉さんの仰った神の概念は極めて自然神のそれに近く、よって認められません。
その他の解釈は概ね許容され得るものだと考えますが、
一つ触れられていない点があります。
それは「ネヴァモアがゼロアースの方針に賛同してしまったのをどう解するか?」という問題。
ゼロアースを「何だかよくわからんが暴走した信徒」と解するのは良いでしょう。
が、それに私が同調してしまったという事実が厳然と目の前に存在します。
ここで私がどうして物騒な行為に同調したかの理由を述べねばなりません。
この事については締葉さんの文中に上手く表現された箇所があります。
> 神という「システム」の存在に重きをおき、その威光を守るために、重心の有り難さを知らしめるために世界に揺さぶりをかけてのける
私は自身、内々で密かに
「アース教(ネヴァモア派)は神をあまりに卑近にし過ぎたのではいか?」
という問題意識を有していました。
アース教(ネヴァモア派)というのは本当に変わった宗教で、
神の人間に対する絶対的な優位を認めつつ(=成長の目標としての絶対性)も、
一方で人間が確実に手の届く存在(=成長の目標としての的確性)として神を規定しています。
この二つはアース教(ネヴァモア派)が宗教である限り両立していなければなりません。
的確性が無ければ目標足り得ないのは無論ですし、的確性だけ有しているのでもいけません。
単に目標として的確なだけならば、別に神を思い描く必要は無いからです。
しかし、これまでの活動はコリーアの件あり、人々の神離れという問題ありで、
どちらかと言うと専ら後者ばかりを追及していたように思えます。
それで良いのだろうか?
それは人間が神に向かって昇っていくのではなく、
神を人間の側まで引き摺り下ろしていくようなものではないか?
そんな疑問を有していた時、ゼロスパイアが、ゼロアースが現れた。
私はこれを神の絶対性を知らしめるべき時と解しました。
そして……失敗に終わろうとしています。
結果「神」というものに手痛いダメージが生じただけに終わった訳で、
私がその責任を回避するわけにはいかないだろうと思います。
何より、こんな私をこれからの世界は決して許しますまい。
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